気が付けばもう6月が終わりますね…!旅行にいっていたからか、私にとってはあっという間の5月6月でした。3月と4月は恐ろしく長~く感じたものですが。
時間って面白いですよね。1日の “24時間” という分量は変わらないはずなのに、長く感じたり短く感じたり。本当に伸び縮みしていたりして(笑)
さてさて、今日は「スピリチュアルに対する抵抗」についてお話していこうかなと思います。
スピリチュアルな話って、趣味の話や食べ物の話、観たアニメの話に比べたらスタンダードではないなと感じます。
なんだか、スピリチュアルな話って、一瞬 緊張が走りますよね。「話して大丈夫かどうか…」という。政治の話やネットワークビジネスなんかもそうですよね。
そして私は、普段の生活の中で、「スピリチュアル好きな人」とも「別に信じていない人」ともお付き合いしていますが、両者ともそれぞれ「スピリチュアルは怪しい」「”スピリチュアルは怪しい”と思われているから、スピリチュアルな面を出しにくい」と感じているように思います。
おそらく、多くの人が無意識に感じているであろう、この抵抗について、なんでなんだろう?というところを一緒にひも解いていきたいなと思います。
スピリチュアルと宗教
スピリチュアルが怪しいと言われるゆえん。それは、多くの人の頭の中で「スピリチュアル=宗教」の図式が出来上がっているからなのかなと思います。それも、どちらかというと、古くからあるキリスト教や仏教といった伝統宗教ではなく、教祖がわりと最近の人…という、新興宗教の部類ですかね。
そして、日本人は そういった新興宗教に対して良いイメージがない人が多いのではないかな。
それはきっと、新興宗教が関連する大きい事件が、日本でも何度か起きたからなのかな、とも思います。
あとは身近でも、宗教に関わっている人から強引な勧誘を受けたとか。街中で、宗教絡みっぽいビラ配りやパフォーマンスを見かけて「何この人たち…」って思ったとか。
そこから、「怪しい、危険、こわい」というイメージがついてしまったのかなと思います。
日本人と宗教
宗教に関わる人を見て「こわい」と感じやすい理由のもうひとつは、現代の日本人の多くが “無宗教” だから、なのではないかなと思うんです。無宗教というか、「特にこだわりがない」「特に何かをつよく信じているわけではない」という感じですかね。
海外旅行で、インドやエジプトに行った時、お世話してくれた現地の人が「今は(宗教の)食べてはいけない時期だから、水しか飲まないんだ」と言っていたり、平日の昼間でも 現地の人たちが、お祈りのためにモスクに続々と集まっていくのを見かけたりしました。
そういった方々に比べたら、日本ってだいぶ「特にこだわりがない」人が多いんだなぁ、と思ったんです。宗教的な理由で「食べられない、選べない、できない、やらなければならない」って、日本ではあまり聞かないな、と。
そういう、「無」がデフォルトの人たちが ”宗教に対して強い信念がある人“ に遭遇すると、少々面食らってしまうところがあるのかなと思うんです。
日本においては、何事も「無難にほどほど」が一番 安全であり、健全という風潮があるような気がしませんかね。
新年になったら初詣にも行くし、厄年に神社仏閣で厄払いもするし、クリスマスも楽しむ ―― ただし、「まぁ風物詩としてやっているだけです」程度のスタンスで―― という感じがあるのかなと思うんですよね。「本気で信じているわけじゃないけど、まぁ…おまじない的な感じで」というような。
「この神社、縁結びにいいらしいよ」「じゃあ行ってみよ~」で神社仏閣に赴き、パンパンと手をたたいて「いい相手がみつかりますように」と お守りを買って帰る。くらいは許容の範囲だとしても
祝詞を暗記しているとか、ご祭神の神様について詳しいとか、二礼二拍手一礼じゃない… となってくると、「えっ!?あ、この人…本気で信じている側の人なんだ」ってなるんじゃないかなと思うんですよね。「ガチ勢」なんて言葉がありますが。
思ったからなんだって話なんですが、例えば アーティストの筋金入りのファンであることを知った時なんかに比べたら、なんというか、“見てはいけないものを見てしまった感” が強いのが、宗教、政治、ネットワークビジネスあたりなのかなと思います。
なぜ宗教に傾倒している人をこわいと感じるのか
では、なぜそういった宗教や政治、ネットワークビジネスに熱心な人をこわいと感じるのでしょう?
思いつく単語は、
否定される、攻撃される、何をしてくるか分からない(我を失っている)、押し付ける、勧誘される …あたりでしょうか。
否定される/攻撃される
たとえば、好きな食べ物の違いなどと比べると、宗教や政治の意見の違いって、すごく激しいイメージがありませんかね。
国会の中継なんかを見ていても思いますが、意見の対立が激しいですよね。
「へぇ~そうなんだ、私はあんまり塩ラーメンって好きじゃないんだよね~」みたいな優しい意見の違いで終わらず、「これでいいわけがないでしょう?あなたは間違っている!!」みたいな発言が飛び交っていて、時にはポロッと暴言失言が飛び出してしまってニュースになる なんてこと、度々ありますよね。
宗教においても、本気で信じているほど「自分たちこそが正義だ」が強くなるように思います。宗教に起因する戦争を始めてしまうほどに。
信念の根幹であるからか、「そんな考えもあるんだね」で終わらせることができず、「いやいや違うだろう、それは間違っている!」と、否定や攻撃をするようなイメージが強いのかなと思います。
何をしてくるか分からない
食べ物の好みの違い、アイドルの推しの違い…
意見が異なることは日常でも多々あると思いますが、意見が違ってもそんなに怖いと感じることはありませんよね。
それは多分、意見が異なっても、お互いに理性を失っていないから。食べ物の好みが違うことや、推しのアイドルが違うことを理由にした事件とか騒動ってあまり聞かないですよね。
一方で、宗教が絡むと、事件…宗教戦争…と思い浮かぶことは多々あります。
「そんなことをしたら捕まってしまうことは、少し考えたら分かるはずなのに、なぜそんなことをしようと思うんだろう」と、ニュースをみながら感じた人も多くいるのではないでしょうか。
そして、多分その続きは
「そんなことも分からないくらい理性がなくなってしまうなんて、宗教っておそろしいものなんだな。」ではないでしょうか。
さらに多分、これはニュースの中の話だけではなくて身近でも感じることが多いのではないかなと思います。
私自身にあったことをお話すると。
学生時代にすごく仲が良かった後輩が、ある時「お世話になったお礼に紹介したい人がいる」と言ってきたんです。
「なんだろ?彼氏かな?それとも親御さん!?」なんて思いながら会ってみると、その子は一人っ子なはずなのに “お姉ちゃん” を連れてきていて、自身が信仰する団体の会報や、創設者の方の著書を渡し、「こういう社会をつくりたいんです」という話をしてきたんですね。「あなたなら賛同してくれるはず」と。
その時、「あぁ、この子から謎に人が離れていくように見えた原因はこれだったのか」と思ったし、血の繋がりのない “お姉ちゃん”と、2人で創設者の人の教えを話してくる…というのは、相手にとってはだいぶ面食らうことだという、ごくごく当たり前のことが、なぜ分からないんだろう…と思った記憶があります。
そういう、「まともな思考ではなくなっている感じ」…というか、「なにをしてくるか分からない怖さ」みたいなものが、“宗教” にくっついているイメージのひとつなのかなと思うんです。
押しつける/勧誘される
まさしく 先ほどあげたお話にも当てはまることですが、宗教やネットワークビジネスが敬遠される理由。それは、「押し付けられたり、勧誘されたりするのが嫌だから」ということではないでしょうか。
そして、断りたくてもなかなか話が通じない、何をしてくるか分からない。断ろうとして自分の意見を話すと否定される、攻撃される。そもそも断らなきゃいけないこの状況がいやだ。
そんな感情を誰しも一度は経験したことがあって、「できるだけ関わらないようにしよう」と思うようになったのではないかなと思います。
派生してできた嫌悪的なイメージ
そういった、勧誘してくる類の宗教やネットワークビジネスに対する抵抗についてお話してきましたが、ネガティブなイメージというのはこれだけではないように思います。
このほかにも、”目に見えないもの” 全般に対して向けられる ネガティブなイメージがあるように感じているんですよね。”目に見えないもの” 全般というのは、特に宗教に限らず、スピリチュアル、オカルト、占い、おまじない などの “目に見えないもの” 全てです。
「スピな人」とか「スピってる」なんて言葉を度々耳にしますが、この対象はどちらかというとこちらなのかなと思います。
ごりごり勧誘してくるわけじゃないのだから、別に害はないのでは??とも思えますが、こういったものに対して眉をひそめる人もいらっしゃいますよね。そういった方々の心境としては「根拠がない、詐欺、現実逃避、決めつけられる」などがあげられるのかなと思います。
根拠がない(非科学的)
スピリチュアル苦手な方の一番の理由はこれですかね「だって目に見えないじゃん!」という。原因と結果のあいだが目に見えないし、論理的ではないから信じられない、という感じですかね。
「恋愛運の御守りやパワーストーンを持つことが、なぜ恋人に出会えることにつながるの?仮に本当にパートナーができたとして、偶然じゃない?御守りやパワーストーンのおかげだとなぜ言い切れるの?」という疑問があるんだと思います。
騙す/騙される
これは “目に見えない” からこそ、出てくる問題でしょうかね。「騙している、騙されているのではないか」というものです。
目に見えないからこそ騙せてしまう。今までの長い歴史の中で、真に意味のある祈りや祈祷もあっただろうと思いますが、見えないのをいいことに悪用する人たちもいたのでしょうね。
真偽を見極めたくても見えないし… ということで、詐欺なのではないかという疑念がぬぐえないのかなと思います。
現実逃避
スピリチュアルの世界で良いとされていることは、現実的な一般社会の中だと「現実逃避」や「夢見がち」と捉えられることがあるなぁと感じています。
素敵な人間関係を願って神社仏閣に通ったり、理想の相手像をイメージしたりすることは、スピリチュアルの世界だと有効だとされています。
しかし、その意図を知らない現実的な人からみると「神社仏閣じゃなくて、実際に出会える場所にいかないとダメでしょう」とか「理想が高すぎて、そんな人実在しないって」と、現実を直視できていない、夢見がちで地に足がついていない、といった風に映ってしまうのかなぁと思います。
決めつけられる
占いやスピリチュアル系のセッションが苦手だという人に理由をきいてみると、この回答が返ってくることがとても多いです。「決めつけられるのが嫌だから」と。
確かに、昔テレビでも「あなた地獄におちるわよ」なんてのがありましたし、霊視などでも「あなたになんとかがついています」など、スピリチュアル系のセッションでは、「あなたはこうです」と言い切られることが多かったように思います。
マイナスなことを言い切られるくらいなら聞かないでおきたいし、自分で決めたい。だから占いに頼る人の感覚が分からない、自分で決められないなんて、こころが弱いんじゃないかしら…しっかりしていないんじゃないかしら…と映った結果、スピリチュアル苦手だな、と思ってしまったのかなと思います。
私が思う、真のスピリチュアル
これらは、私の人生においてスピリチュアルと関わっている中で、自分自身で感じたことや周囲に言われた言葉たちです。
人によっては、きいていてあまり心地のよいものではなかったかもしれません。それでもあえてハッキリと文章化したのは、「私がたどり着いたスピリチュアルは、こういうスピリチュアルじゃないんだよ」ということを伝えたかったからです。
確かに、こういったスピリチュアルも存在しているなと思います。でも、これが全てではないことを知ってもらいたいなと思いました。
私自身、最初からスピリチュアルを信じていたわけではありませんでした。むしろ、幼少期からスピリチュアルが身近にあった分、人より「なんでそうなるの?」と疑問に思うことが多かったように思います。
だからこそ自分でいろいろと見て、聞いて、実践してきて思ったことは、「現実的な社会の中だけで生きているようで、目に見えない世界の影響というのは確実に存在しているな」ということでした。
そして、目に見えない世界の仕組みを理解し上手に使うことで 人生が好転してきた身としては、「スピリチュアルっぽい」というだけで即 回れ右してしまうのはもったいないなと思ったのです。回れ右をしたくなる気持ちも よぉーく分かる。しかし、それが全てではないと知った。だからこそ、話してみようと思ったんです。
本当のスピリチュアルとは、人に強制するものではなく、ただ自分に向き合うことなんです。
自分の内側に意識を向け、出てくる思考や感情に淡々と向き合い、自分を極めていくこと。
そして、それを淡々と 生き方あり方で示していくもの。
自分が何を感じるのか、どうしたいのか、自分の心にきいて自分で選択していくものであり、自分の選択を尊重するのと同じく、他人の選択も尊重すること。
ただ自分の心にきいて終わるのではなく、きちんと現実的な行動にうつしていくこと。
人に社会に決められるのではなく、自分が決めること。自分が選ぶこと。自分に力を取り戻すこと。
今までの、他人を攻撃し批判し、変えさせよう、自分たちの中に取り込もうとする怖いものではないんです。
むしろ、こういった生き方をしている人たちは、穏やかでありながら芯があって、自分に集中している人が多いなと思います。自分に集中していると何が違うって、他人の噂話や悪口が全然でてこないんですよ。
本当のスピリチュアルを体現できるようになったら、誰かを傷つけることがないのではないかな、なんて思ってしまいます。
そんな「私がおもうスピリチュアル」や「見えない世界の仕組み」について、このブログでぽつぽつ語っていきたいなと思っていますので、もし「へぇ~それなら聞いてみようかな」と思う方がいたら、またのぞいてみてくださいね。
